「自分を好きになるには」みたいな本、本屋行くとぎょうさん並んでますよね。
私も一時期お世話になった、スピリチュアル系の本。
そういうスピ系の本にはもちろんのこと、毒親やDVモラハラのサバイバー向けの本にも「自分を好きになること」が、最重要課題みたいに書いてある。
最近は、あっちこっちのコラムとかにも「自分を好きになるための情報」が山盛り載っていて、「自分を好きになることはいいことだよね!」っていう雰囲気が、あたり一面に漂っています。
私もかつては疑うことなく「自分を好きにならなきゃ」と考えていましたが、最近は、おなか一杯で、「自己肯定~」とか「自分を好きに」という文句を見ると、「またか」と思うようになってきた。
そういう目で改めて巷を見ると、「自分を好きに系」のワードがどんどん鼻につくようになった。
SNSで「自分のことが嫌いです」とつぶやいた日にゃ、「ダメだよ!自分を好きにならなきゃ!」「自分を嫌いなんて言っちゃいけないよ」てな感じのコメントがわんさかつくでしょう。まるで、「励まし」というよりも「お説教」って感じのコメント…。自分を嫌いな人は、愚かだ、無知だ、メンヘラだ、と、いろんな人から怒られる世の中。
「太っている人間は健康管理能力の低いダメ人間だ」みたいな偏見、あれに似ていると思う。自分を好きなことは結構なことだし、それに越したことはないでしょう。でも、自分を嫌いなんていっちゃ「ダメだ!」までいくと、「圧」になってると思う。今や、「自分を好きでいよう」というフレーズが、人を励ます言葉ではなく、むしろ害悪のある「呪い」になっているように思えてきました。
そのことに気づいたきっかけは、旧友からのメッセージ。
友人の言葉がよそよそしいというか、まるで冷たく突き放されているように感じて私は凹みました。
メッセージの内容は、たんなる事務連絡だったのですが、その日の前日のやり取りが、とてもノリがよかったので、その落差でいっそう冷たく感じたんですね。
その落ち込みは瞬時に起こりましたが、順番に書き出します。
・私が送った「こうしたらよくない?」という提案のメッセージに「無理なので今度にして下さい」と返事が来た。
・拒否された、と思い、がっかりした。
・ノリよく気さくに話しかけたのに、来たメッセージは単調で、ショックだった。
・嫌がられた、突き放された、疎ましがられた、と思った。
・シャッターを目の前で閉められて一人だけ残されたような、冷水を浴びせらせたような感覚。
・仲がいい、好かれてる、と勘違いしていたけれど、相手にとっては自分はどうでもいい存在なのだ、と思った。
・勘違いして調子に乗ったメッセージを送った自分が恥ずかしく、腹も立つ。
・美しく堂々としている仲間たちと、今回返事をくれた友人が、輪になって楽しそうに話しをしている横で、一人立つ私、というビジョンが見えた。「友人は、私よりずっと魅力的な仲間たちと仲良くしているのだ。私なんか誘われることはないだろう、私は場違いであり、その輪には入れない。」と考えた。悲しい。
…上記のようなことをほんの数秒の間に、瞬時に感じ、考えた。
改めて見てみると、すごい量のことを考えているなあ、しかも、おそろしくネガティブだなあ、と感心します。すごいですねえ。自分のことをものごく嫌っています。
その時の感覚に名前を付けるなら、「劣等感」「羞恥心」「嫌悪感」「疎外感」「孤独感」「怒り」で、すべて「こんな自分が嫌い」という感覚だと思います。
アドラーの勉強会で学んだ中に、「人は、所属が途切れたとき、身の危険を感じ、何とかしなければと、その状況に対処するために陰性感情を起こし、自分を奮い立たせようとする」というものがあります。
そのメカニズムで見直すと、私の中で起こったことはこういうことです。
「所属が切れた。私がダメだからだ」という思いと、「こんなダメな自分が嫌だ、こんな自分では、好きな人たちの集団に入れてもらえない(所属することができない)」という思いが、一度にやってきて、交互に繰り返された。同時に、その困った状況を何とかするために、怒りなどの陰性感情が生成された。
感情は、何らかの目的で「自分が作った幻」に過ぎませんから、感情を消そうとか退治しようとかはしなくていいけれど、ただ、自分が感情的な時はフラットな決断・行動・発言ができない、ということは知っておく必要があります。
この場合はどうするのがいいかというと、例えば、陰性感情には頓着せず、ふつうにその時目の前にある、家事とかを行い、その陰性感情が発生した状況を改善するための対処はしないのがよさそうです。(例えば相手に「私のことどう思ってるの?」とか言ったりはしない)
もし何か対処する必要があるとしても、それは陰性感情が落ち着いてから行うことが望ましいでしょう。
私はその時どうしたかというと、「了解」と答えただけで、他は何もしませんでした。
翌日落ち着いてからメッセージを読み返すと、なぜあんなに落ち込んだのかわからないほど、ふつうの事務連絡的メッセージでした。あせって変なメッセージをしなくてよかった(;´Д`A ```
この時の顛末については以上です。
ここからが「本題」です。
その落ち込んでる最中に、「なんでこんなに自分って、嫌われることをこんなに怖がって、取り乱すんや??おかしくないか??」って考えが、ふってきた。
ホンマに、なんでなんやろう?
嫌われるって、そんなに怖い事か?
もしこの世が中世とかで、嫌われたら魔女と言われて火あぶりにされる、とかだと、「嫌われて」→「火あぶりにされることが怖い」になるだろう。それはわかる。
(私には「魔女裁判で有罪になって火あぶりにされた前世」があるらしいので、嫌われることを極端に恐れるのは、そこから来てるのかもしれないけど、それはまた後日)
けど、現代ではそういうことはない。ネットリンチとか村八分とかは今もあると思うけど、少なくとも、その友人に嫌われたとしても、だからってそういうことには絶対にならない。
うーん、なんだろう。なんで嫌われるの怖いんだろう。
…自分の中で「嫌われる」イコール「敗北」みたいなのはあるかな。
私が人に嫌われることを極端に恐れる背景に、「嫌われたら負ける➡負けたらだれにも見向きもされず孤独死」という思いがあるような気がする。
で、やたら「好かれてるか?」「嫌われてないか?」を気にする人が多いのは、そういう人にとっては「好かれる力」こそが武器で、「強さ・順位」を決めるのが「好かれてるか嫌われてるか」なんじゃないだろうか。
「嫌われると」→「敗北し」→「一人で放置されたり、踏まれたり、食われたりするほうになる」っていう感じ。
強者=君臨する者=好かれてる人=仲間がたくさん
で、弱者=下位の者=嫌われてる人=孤独
という位置関係。
自分の力で立とうとする人は、は自分の筋力とか財力とか知能とかで「勝負」をするところを、そういう人は、人から好かれる力で「勝負」する、みたいな。
ああそうか、男が自分の階級とか身体能力とかを気にしたり、あいつと俺のどっちが勝ってるかを気にしているのと、
女が、自分がどのくらい好かれてるか、自分がどれだけ人を惹きつける魅力的な容姿かを気にしたり、あいつと私のどっちが可愛さで勝ってるか?を気にしているのが同じなんだなと。
男は自分の地位を上げ、強くなり、力をつけて、その集団で「勝ち抜いて」自分の所属を確固たるものにしようとする。
では女はどうするかというと、目を大きく見開いたりカワイイものを身に着けたりして、実年齢より若く、というより「幼く」見せようとしたり、カワイイ萌えキャラグッズを身に着けたりして自分をか弱く見せて勝ち抜こうとしているのだ。
か弱く見せて勝つ、というのは逆説的に見えるかもしれないが、「か弱くカワイイ女性のほうが強い」からなんだよな。
「か弱さや可愛さという強み」を手にして「勝ち抜く」ことで、自分の所属を確固たるものにしようとする心理なのだなと合点がいきました。※私の私見です。
で、ここからが、「自分を好きになる」のは、本当にいいことなのか??の話です。
「こんな自分が嫌」って考えが自分に突然降ってきて落ち込むのは案外よくあることで、何かの拍子に一瞬で落ちるんですよね。まるであちこちに蓋のないマンホールがあるようなもんです。
なんらかの「トリガー」にひっかかった瞬間にマンホールが出現して、ズボッと落ちるような気がする。今回は友人からのそっけないメールがトリガーだった。
それで、トリガーが何か?を心理分析することはできる。それは発見も多いし、面白いし、生きづらさ対策に非常に有効ですが、だからといってトリガーは無限にありそうだからゼロにすることはできない。「一生落ちないようにできないか」と考えるのは無理なような気がします。私はそうそうに諦めました。
人生には蓋のないマンホールがつきものなのです。
「『こんな自分が嫌だ』のマンホールに時々落ちる」のは、人生につきものなので、それは覚悟の上で過ごすのが良いと思いますが、やっぱり落ちた時はしんどいので、どういう心の持ち方でいれば少しでも楽でいれるかを考えてみます。
こんな自分が嫌だ……
更に気づいたのが、私はマンホールに落ちると、決まって自分を「哀れ」になるように行動する、ということです。
たとえば、1人で外に出て(わざわざ薄着で)、凍えながら人気のない川べりですごすといった、「しいたげられて可哀想な映画のヒロイン」のようなシチュエーションに浸るわけですね。
ところが今回は、自分を「嫌いだから」っていう理由で、自分を寒い場所で過ごさせたり、虐げるのは、おかしいんじゃないか??と、ハッとしました。
もし自分の子供に対して、「上の子は好きだからお洋服を着せてあげるけど、下の子は嫌いだから服はあげません、寒くても知りません」…。ってなことをやったら、ひどいですよね。
で、この「こんな自分は嫌いだから寒くても知りません」、ってのは、この子は嫌いなので服を着せてあげません」ってやるのと同じだと思ったんです。
そんなひどいことを、今まで私は自分にやっていたのか??ってびっくりしたんですよね。そんなこと、やっちゃダメだよね。自分虐待じゃん。
「嫌いなものはいじめてもいい。粗末にしてもいい。」と対になっている「好きなものは尊重します。」って、そんなの「尊重」じゃないよねって。
好きな時だけ優しくするのは「条件付きの愛」であり、優遇とかエコひいきであって、「尊重」じゃないよね。
尊重というのは、存在そのものをいつくしむことであって、「好き嫌い」などには左右されないはずだよね。そう思いました。
それまで、「自分を尊重すること」と、「自分を好きなこと」は、全然別の問題なのに、
自分を尊重することは、つまり自分を好きになることなのだ、と勘違いしていたことに、気が付きました。
自分を大事にするとは、「自分の全てを好きになるように努力すること」ではなくて、「自分を好きな時も嫌いな時も関係なく、どんな時も愛し、尊重すること」だったんだなあ。
そこまで気づくと、自分を「好き」とか「嫌い」とかいって「評価」「点数付け」していることじたい、なんだかものすごくおこがましいというか、傲慢で、自分を粗末にする行為な気がしてきました。
神様に、アンタ好きとか嫌いとか言う?
地球とか、太陽に対して、好きとか嫌いとか、言う??
言うのは勝手やけど。
言うたとしても、神様も地球も怒らんやろけど。
でもなんかおかしいと思う。
そもそも「好き」とか「嫌い」とか言う時点で、採点してるみたいで、おこがましいような気がしてきた。傲慢すぎるよね。何様??
「こんな自分が嫌だ!!自分なんか嫌いだ。」と、ドツボにハマることも有ると思う。けど、そんなときも、絶えず変わらず自分を愛し、尊重し、大切にすることが大事なんだ、と思いました。
それは、「自分を好きになろう」と躍起になっているうちは、なかなか見えないかもしれません。ですから、あえて言います。自分を嫌いでもいいじゃない。そんなときもある!と。
でも、そんなときも、自分を凍えさせず、あたたかい毛布で自分を包もう、愛を向けよう。と、それが大事だと思います。
結婚式の誓いで、「病める時も健やかな時も~変わらず愛しますか?」という言葉がありますが、それと同様に、「好きな時も嫌いな時も、変わらず私を愛します」の誓いが大切だ、と。
「自分を好きにならないと」という声掛けよりも、「自分を、好きとか嫌いとか関係なく、どんな時も変わらず、自分をいつも大切にしよう」のほうが適切だと思います!
この内容が、必要な人のところに届いて、お役に立ちますように。



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